@donpy 通信【523号:2013/03/07版】

質より量と言うわけ。

ブログの記事の質っていうけど、ブログ全体の質で言えば、何かの特化したブログであればあるほど、抜けが多いってことはもっと大きな意味でもったいないことしてるんじゃないかと思ったりもします。

一記事のクオリティを求めるもとても大事なことですが、すべてではないと思うわけです。

一記事のクオリティ。私はそこをあげることがなかなか出来ていません。でも細々ですが、ちゃんと続いています。なぜでしょう?答えは簡単で「ただ書き続けている」からです。それ以外何もないです。

クオリティを求めて納得いかないエントリーがお蔵入りするというのは、ブログとしての情報がひとつ抜け落ちてしまうということに等しいのではないかと思ってます。それはブログ全体のエントリーのつながりという意味では自らクオリティを下げていることなのではないかと思うと、なんとももったいない話だと私は思います。

出してなんぼってのはそういう意味もあるわけで、そのネタが必要とされたと自分が思った時点で納得いかなければ書き直せばいいだけの話なんじゃないかと。

何度も言ってると思いますが、ブログは本じゃない。いくらでも修正できるし、同じネタを何度書いてもいいと思う。だいたい、そんな会心の内容のエントリーが一度できたくらいでどれだけの人に伝わるのだろうかといつも思う。10戦10勝のブログよりも11勝1000敗のブログの方がやがて読まれるようになるんだと思うわけです。まあ、極論ですが。それに読まれたからといってどう評価されるかはわかるよしもありませんし。

そのとき初めて1エントリーのクオリティについて考えたらいいんだと思うわけです。それにたどり着く前に「質」とか考えることはないと思います。もーどんどん書いちゃって出しちゃって凹んじゃってそれでも書いちゃってたまに喜んじゃっての繰り返しが楽しいと思います。

何かの情報を発信するにおいて、そのカテゴリーをどれだけカバーできるかが一番のわかりやすい受け皿に繋がると思うし、受け皿が小さい中で質を求め始めるのは自分に大きなハードルを作るだけで、発信力はそう上がらないと思うわけです。いつでもどこでもすぐに記事が書ける状態にすることの方がが実はとても難しいことなんだと思います。

情報とは何か。

それを一度物理的にすべて分解してみてはどうでしょうか?そのパーツひとつひとつを見つめ直すことが大事で、目先のPVのための小手先のテクニックだとか、がむしゃらに誰かの真似をするのも最初は悪くないとは思いますけど、そのついででもいいので、その根底にあるものが何かを考えてみるのがいいんじゃないかと思うわけです。

つまり、何を発信したくて、何をもって情報だと考えているかなんだと。その上にテクニックがあるのではないでしょうか。

結局何が言いたいかというと、自分作った受け皿がザルだということです。もう穴だらけったらありゃしない。書きたかったのに書けなかった記事っていっぱいあるじゃないですか。それが自分の損失だと思ってます。恥さらしときゃよかったと思うわけです。

とまずTwitterで流し、Facebookで書いた次第です。実は内容はちょっと変わっています。こんなふうに。

こう書いた後、Facebookにこう書きました。

15 西田 竜介

そしてこのエントリーになったわけです。言いたいことは同じなのですが、発信とか情報っていうのはこのようにいくらでも表現は変えられるわけで、だからこそ私はブログやってるんだと思います。

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