@donpy 日記【603号:2013/11/03版】〜 柄にもないエントリー

迷走日記

村上春樹のブログとして読む 走ることについて語るときに僕の語ること   RyoAnnaBlog 1

今日は文化の日。ちょっとくらい文化的なことくらいしてみようとかふと思ったりしているときに、

どうせオレは"食文化"か"ガジェット文化"だろうね。と茶化す自分がいながら、こんなときくらいしか、博物館とか美術館とか行ってみる気にもならないんだろうなぁと心にもないことを思いつつ、朝の巡回を始めた。

私のRSSの読み方は冷徹で、自分の少しでも興味のあるタイトルでなければどんなに仲の良いブロガーでも読まない。Sylfeed というアプリは「左スワイプ」という悪魔のような機能で私の冷徹さをさらに加速させてくれている。一瞬にして、未読の記事を既読に変え、目の前から消し去ってくれる。

そんな中で今日はいつもなら決して読まないエントリーのタイトルを目にした。

村上春樹のブログとして読む『走ることについて語るときに僕に語ること』via RyoAnnaBlog

そしてなぜか読んだ。

走ることにも村上春樹にもまったく興味がない私がなぜ読もうと思ったかと言えば、たとえその記事の執筆者が @RyoAnna だとしても普段なら読まなかったと思う。ただただ、今日が文化の日だったということではないかと思う。

結果「走ることについて語るときに僕の語ること」という書籍を購入してしまった。このエントリーを読んで本当に良かった…と思えるのは今日購入した書籍を読み終えたときなのかもしれない。

時々思うのは、ほんのちょっとしたきっかけは自分の中でも起こり、その時に出会った人だったり、他人の想いに触れることだったり、それがブログの一記事だったりするわけだが、ものであれ、人であれ、そのタイミングはどちらの思惑がどうであれ、瞬間の共鳴というのだろうか。そんな不思議な感覚を体感することがあるなぁと。でもそれを「単なる出会い」で片づけるにはもったいないように感じる。

それが自分にとっては変われるチャンスであり、そのチャンスは孤独の中に果たして見つけられるだろうかという想いと、自分との対峙というものはやはり必要なんだろうなぁという想いとが渦巻いてしまって結局何がなんだかわからなくなるんだけども、そんなアナログの中で指し示す針の揺れの中でこれからも生きていくんだろうということだけはわかる気がした。

要するになんだ、文化の日が制定されていたからこそ、普段読まない記事を読み、普段決して買うことも読むことのない本まで購入してしまい、このような柄にもないエントリーをするわけだから、それはそれでひとつのきっかけで、昨日でもなく明日でもなく、その記事が私の目の前に出てきた偶然とその説得力に感謝したい。

そして最後に、なぜこのようなタイトルで私が次なるアクションで出たかと言えば、そのエントリーを読んでもらえばわかると思う。

見事に本のタイトル+「ブログ」という言葉に一本釣りされてしまっただけの話なのかもしれない。

みなさんはどう思われましたか?

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